居酒屋 赤坂へ興味を示そう
「お前、あれは冗談だろう?」「いえ、本気ですよ」それならすぐに東京へ説明しに来いといわれ、T氏は急濾、東京へ戻った。
本社でのやりとりはこんなふうだった。
「何で辞めるのだ?」「S社に入るときから、男として自分で事業をやってみたいと思っていたのです」「一体何をやるつもりなのだ?」「まだ決めていません。
辞めてからじっくり探すつもりです」「お前の様子がどこかおかしいと思うこともあったのだが、ようやく本音をいったな。
それなら条件が2つある。
今度の長期計画の仕事はやるようにしろ。
会社には借りを作らない方がいいだろう。
だから他の人間にはお前の計画は内緒にしておけ」これにはT氏もなるほどと思った。
さらに次の条件が示された。
「もう1つ、辞めるということじゃなく、おれがお前に3年だけ出向させてやるのだと考えろ」つまり3年間好きなようにやってみろ、うまくいかなかったらまたS社に戻って来いというのだ。
いかにも親分肌の上司だ。
「有り難いですけれど、そうはいきません。
途中で辞めてまた戻るなんて、仲間にどんな顔を向けられますか。
うまくいかなくて、たとえ自分1人だけになって野垂れ死にするとしても、戻るわけにはいきません」かなり格好よい台詞をいったわけだが、自分から辞表を出す者は誰でも、ちょっと任侠映画の主人公のような気分になっているから、こんなヒロイックな言葉が出やすい。
高校時代の同期生だった妻は、T氏の決心を聞いても、「好きなようにやれば」というだけで、見事に何も反対しなかった。
辞めてから何をやるとも決めていないにもかかわらず、S社で「死ぬほど働き」、配属先ごとに十分な成果を上げてきた夫なら、たとえ独立しても幼い子が2人いる生計に不安が生じるようなことがあるとは、考えもしなかったのだろう。
本社での長期計画を終えた後、T氏は予定通り会社に辞表を出した。
それまでの7年間、T氏はまるで辞める気配を見せず「死ぬほど」働いていたから、S社の仲間たちは、寝耳に水の話に「えっ」と、信じられない顔を見せたという。
T氏は男のロマンを貫くために辞表を書いたといえるだろう。
会社に辞表を出した後、彼にはどういう選択があるだろうか?一番多いのは、別の会社に再就職することだろう。
小規模な自営業の場合、仕事との関わり方が自由業に似ているものもある。
サラリーマンに戻る選択以外を選んだ人たちに、どういう日々が待っているのか。
もっとも気になる経済生活から見ていこう。
食っていけるのか?先に、「(私が)G査房を辞めたとき36歳で、妻と小学2年、小学1年、1歳の3人の子供がいた」と書いた。
編集者と物書きは親戚のような職業とはいいながら、私はそれまで原稿を書いて収入を得たことは一度もなく、つまり未経験の分野にぽんと飛び込んだことになる。
私だってそういう立場の友人から、今の会社を辞めたいと聞かされれば、「お前、大丈夫か?暮らしていけるのか」と少しは不安になるだろうが、自分についてはほとんど気にならなかった。
そのときの自分の内心の命ずるままに行動し、いや、これではちょっと大げさか、とにかく自分のやりたいようにやってみて、うまくいかなかったら、もっと現実的な選択をしよう、と思っていたのだ。
私を鍛えてくれたG書房のK社長も、私の経済生活を心配するようなことは一言もいわなかった。
自分も転職を経験しているのだから、ちっとも心配していないのだろうと思っていたら、後に、「お前は2年くらい経ったら、またG書房に戻ってくるかと思っていたよ」といわれ意外な気がした。
私は自分にそんな選択肢が残されているとは思ってもいなかった。
そこで、「よそで通用しない男に戻って来られても嬉しくないでしょう」といったら、「それもそうだな」と笑っていたが。
そういえば小学校の教師をやっている2歳下の弟にG書房を辞めると伝えたとき、面白いやりとりになった。
「おれ、G書房を辞めて物書きをやるよ」「へえ、そりゃあ、よかったな。
それでどうやって稼ぐのだよ」「だから、物書きをやるのだ」「分かったが、どうやって食っていくのだ」そこまで話して気づいた。
弟は、物書きで家族5人が暮らせるだけの収入を、辞めた当初から私か得ることができるとは、まったく思っていなかったのだ。
何か他の職業をアルバイト的にしながら、その余暇を使って小説やルポを書くと思っていたのだ。
それではまるで文学青年の小説修業だが、もちろんこっちは最初から物書きで食えるようにしようと思っていた。
こう書くと向う見ずに聞こえるだろうが、編集者として周囲にいろいろな物書きを見ていたから、大体の見当はついていて、できそうな気はしていた。
この弟はかなり後になるまで私の経済を心配してくれ、電話で話す機会があるたびに、「食えているか?おれの方は大丈夫だから、いつでもいってくれ」といっていた。
こっちは、懐は乏しくても、なんとかやっていける状態だったのだが、何度もいわれ続けているうちに、(弟の好意を受けないと水臭いじゃないか)と思うようになり、50万円ほど借りることにした。
弟は奥多摩の方に住んでいるのだが、都心に出てくる機会があるとのことで、ある夕方、総武線信濃町駅の改札前で待ち合わせた。
私は約束時間より少し先に着いた。
駅前の雑踏の中で弟を待っていると、駅の中からやってくる彼の姿が見えた。
私は当然、駅前の飲み屋か喫茶店にでも立ち寄り、こっそりテーブルの下ででも金を渡してくれると思っていた。
ところが弟はすれ違いざまスーツの内ポケットから封筒を取り出し、「これ」と手渡したのだ。
受け取り、これからどこへ立ち寄るのだろうと思っている私を尻目に、「それじゃあ、用事があるから」と外苑東通りの方に消えていった。
わが弟ながら、なんだかその後ろ姿はとても格好よく見えた。
私か辞めたとき、妻はよく彼女の友人から褒められたという。
「よくそんな乱暴なことを許したわね。
偉いわ」ということらしい。
妻に「ぼくは小説の修業をするから、家計費はそっちで何とかまかなってくれ」といって了解したのなら、褒められてもいいだろうが、フリーになっても最初から稼ぐのはこっちという暗黙の了解だったのだ。
それでも世間はそう考えるものらしい。
私自身は辞めたことで褒められたことなどもちろん皆無である。
大半は無謀な奴と思っていたらしく、中にはG書房に入ったときからいずれ物書きになるつもりがあったのだろう、と思った人もいたようだ。
G書房をそれまでの腰かけにして準備を進めていたに違いない、というのだ。
前にも書いたように、そんな計画をもっていたわけではない。
それだったら12年は長過ぎるだろう。
誰かが会社を辞めるとき、それ以降の経済生活をかなり計算している場合だって、もちろんあるだろう。
とにかく辞めたい
気持ちが心から溢れてもう元には戻れなくなってしまったから飛び出し、経済はそのあとで考えるというのが、私の場合に限らず、少なくないようだ。
辞めたいという気持ちは「衝動」というのに近い。
経済生活の計算は「理性」だから、「理性」が強すぎては、「衝動」につき動かされ会社を飛び出すということにならないのだろう。
逆に言えば、経済を計算しすぎると辞めるきっかけを失うことになる。
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